般若心経の登場人物は?なぜ舎利子は2回出現するのか?

 般若心経の登場人物について考えます。般若心経は読み手の状態により解釈が異る構造です。そして、修行を経た菩薩の状態において、登場人物は「ご自身おひとりだけ」の解釈をしています。

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般若心経の登場人物:観音さまと舎利子の2人ですか?

 多くの仏学的な解説では、観音さまと舎利子の2人が登場人物とされています。観音さまが菩薩の象徴、舎利子が縁覚・声聞などの象徴です。
 登場人物の関係性は、観音さまが舎利子に語り掛けている解説が多い印象です。または、お釈迦さまが、観音さまの話を舎利子に説いているとする解説もあります。

 当サイトの解釈では、読み手の成熟度により関係性が異なります。物語という系の中で、観音さまに舎利子が呼びかけることもあるでしょう。抽象度が高まって物語という系の外の視点にて、高度な存在が、観音さまと舎利子の話を読み手にしてくることもあるでしょう。

 多くの解説では、舎利子が2回出てくる理由には注目はしないようです。当サイトの解釈では、1人目の舎利子は、物質的な身体の象徴です。2人目の舎利子は、精神的な意識の象徴です。そして、1段階目の修行を終えると、3人目の舎利子が出現する解釈をしています。

般若心経の登場人物:1人目の舎利子

 1人目の舎利子は物質的な身体の象徴です。神智学などで広く知られている用語に換言すると、この部分はエーテル体の領域への呼びかけです。

 サンスクリット語では「iha Śāriputra」と記されています。ihaは副詞「この場合」という意味です。これを漢訳では「舎利子」としています。「子」は孔子や孫子などの敬称としても使われます。しかしここでは、ihaを考慮して子供の「子」と解釈します。つまり、子供のシャーリプトラという意味に取ります。まだ未熟だった子供時代のシャーリプトラという解釈です。解脱できなかった前世のシャーリプトラを象徴するとしても良いかも知れません。

 この呼びかけで説明しているのは、五蘊がすべて空であること。物質と波動が瞬時に状態を変えうること。つまり空とはエネルギー状態であること。これを物質の延長となる熱量であるエーテル体の自己に問います。

本文「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」に続く「受想行識 亦復如是」から、説明が省略されていることも判ります。次の文言を補間して読み取ります。

補間「受不異空 空不異受 受即是空 空即是受 」
補間「想不異空 空不異想 想即是空 空即是想」
補間「行不異空 空不異行 行即是空 空即是行」
補間「識不異空 空不異識 識即是空 空即是識」

 なお、鳩摩羅什漢訳では、この前にもシャーリプトラ相当が出てきます。「度一切苦厄」の直後です。

般若心経の登場人物:鳩摩羅什漢訳は3回の舎利弗

 おそらく光の体験を経ている鳩摩羅什殿は、理屈を説明する前に、問いかけをしたかったのでしょう。

 1人目のシャーリプトラは、エーテル含む身体へ、物質と熱量の身体が瞬時に変容するエネルギーだと呼び掛けている解釈です。

般若心経の登場人物:2人目の舎利子

2人目の舎利子は、精神的な意識の象徴です。アストラル体への呼びかけです。

1回目と同様、サンスクリット語「iha Śāriputra」です。

 この呼びかけで説明しているのは、「不生(ふしよう)不滅(ふめつ)」「不垢(ふく)不浄(ふじよう)」「不増不減(ふぞうふげん)」です。空エネルギーは保存されています。空エネルギーの性質は不変です。空エネルギーの総量も不変です。
 続いて、仏学の概念がすべて「無」だと断言しています。色に応じる「六根(ろつこん)」は無です。受に応じる「六境(ろくきよう)」は無です。想に応じる「(ろく)識界(しきかい)」は無です。行に応じる「十二(じゆうに)因縁(いんねん)」も無です。識に応じる「(しき)」も無です。
 仏学用語の概念解説は無意味です。「無」であり、エネルギー状態では同じだと説いているだけだからです。それなのに、概念を区別する解説はナンセンスで逆行する判断です。五つの概念は五蘊への呼応です。五蘊すべて空となり、それが「無」のエネルギー状態と読み取ります。

 アストラル体となる幽体へ、どのような感情も同一のエネルギーで、システム・系は閉じており、流転しており、ワンネスだと呼び掛けている解釈です。

般若心経の登場人物:3人目の舎利子

サンスクリット版では、舎利子に相当するフレーズは、3回出てきます。

3人目は、サンスクリット語「Chāriputra」です。ihaが付かないのです。

 おそらくサンスクリット版の作者は、菩提へ至る道を3層目としたかったのでしょう。それは当事者がその途中にいたから。しかし、鳩摩羅什と玄奘は、その領域ではないと見抜き漢訳しなかったと想像します。菩提に至って3層目だからです。

 ここはいわゆる、メンタル体への呼びかけです。

 1回目は身体への呼びかけ。2回目は精神への呼びかけ。3回目の呼びかけがあるとするなら、それは菩提に至り自らの苦悩を乗り越えて、他の厄災に取り組む準備が出来てからなのです。段階を経ないと到達できない領域です。

 まずは身体(からだ)で始めるのが般若心経です。最初に身体(からだ)を始動させます。ここをクリアしてから、感情へ進みます。感情となるアストラル・ボディをクリアしてから、思考となるメンタル・ボディへ進む解釈です。

般若心経の登場人物:観自在菩薩とは誰か?

仏学の説明では「自在」は智慧を強調し「世音」には慈悲を強調する、とされているようです。なるほど。サンスクリット語に忠実に訳すと観自在となり、仏門では観世音が正しいとする説明もあります。これらは仏学というフレームワークに当てはめる解釈です。学術的な研究では、こうなってしまうのでしょう。言に迷うと謎になる、とはよく言ったものです。

当サイトの解釈では、次です。

  • 観自在は光の粒子を観るお姿
  • 観世音は光の波動を観るお姿

 般若心経の最初に出てくる観自在菩薩さまは、光の粒子を観ておられます。物質を見つめて、意識下の時間を操作する深い瞑想により、般若波羅密多の状態となります。
 鳩摩羅什が「光世音」と漢訳し、後の時代に「観世音」に置き換えられたという話から、鳩摩羅什殿は菩薩の境地におられたのだろうと想像します。重訳前の鳩摩羅什による漢訳は、光の体験そのものな印象ですから。

 2回目の舎利子へ説く結論「得るところ無しを以て、故に菩提薩埵になる」のくだり、ここは観世音のお姿で光の波動を観られているように読み取ります。この状態を経て、阿耨多羅三藐三菩提・アヌッタラー・サムヤックサンボーディを得る修行に入る、と解釈します。

般若心経の登場人物:ハイヤーセルフの象徴

 心経です。こころの中で起きると考察します。「観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)」様はハイヤーセルフの象徴です。「舎利子(しやりし)」の1回目は痛みを感じる身体の象徴です。「舎利子」の2回目は苦悩となる感情の象徴です。

 登場人物は読んでいる「私」となる1人だけです。繰り返し読むにつれて、語りかけている対象が読み手の心で異なる解釈です。カガミを通して、ご自身を相観できるようになるのです。

般若心経の登場人物

 これが、個人的な解釈となる結論に至ります。

 この図形は、次資料からの引用です。

未単位エネルギーのニックス・ヌース・コンセプション

もしも般若心経が漢字パズルだったら?

般若心経の登場人物:まとめ

 般若心経は読み手の状態により解釈が異る構造です。そして、修行を経た菩薩の状態において、登場人物は「ご自身おひとりだけ」の解釈です。

 読み手の状態とは成熟度です。ジョウボン・上品/ゲボン・下品です。そういう個人的な解釈です。

 

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